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引退ブログ第三十八弾「自分と向き合った3年間」

僕は、1年生の時、サッカー推薦で入学しましたが、それまでフィジカルだよりのプレーをしてしまっていて技術や戦術を全く持ち合わせていませんでした。センターバックからフォワードに転向したこともあり、大きな遅れをとってスタートしてしまいました。その年はカテゴリーは1年のAチームからBチームへ降格をし、特にチャンスが回ってきたわけでもなくそのまま2年生になってしまいました。その時に得たものをしいて言うならば、チャンスがなかったにもかかわらず前向きにプレーを続けることができたメンタルです。
2年生の頃は色々な変化が起こる年でした。
僕は夏に腰椎分離でチームを長期離脱してしまいました。その結果周りとの差が埋まるどころか、どんどん広がって行くばかりでした。やっとの思いで復帰したところ、1〜2週間経った頃にプレー中に手首を骨折してしまいました。とても絶望しました。その時に担当してくれていた日向寺コーチの練習は頭を常に動かさなければいけなくてとても難しく、独特の緊張感がありました。怪我で参加することが出来ない代わりに理解することに集中して練習を見ることができました。そのおかげで皆無だった戦術理解が伸びていきました。結局カテゴリーも上がれずに3年生になった頃に復帰をすることが出来ました。その時のコーチは日野コーチでした。日野コーチは僕の武器である、フィジカルを使った戦術をチームに組み込んでくれたりしてくれました。しかし、自分がどんなプレーをしたいのか分からなくなり迷走したままプレーをしていました。そしてコーチが吉田コーチに変わった頃の高校最後の夏合宿の時に自分のするべきプレーを少しづつ掴むことができていくようになりました。その結果リーグ戦でも安定して得点をするようになり、自分のイメージも湧くようになっていきました。その夏が自分の中で1番大きく成長できたところだと思います。しかし、その時もカテゴリーは上がることはありませんでした。ひたすら必死にサッカーをして時が過ぎていきました。少し経って高校生活で1番大きな舞台である選手権の予選の時期がやってきました。豊島監督は全体のミーティングで、予選に挑むにあたってメンバーを選抜してそこから選ぶと言うことを言っていました。僕は下のカテゴリーでしたが諦めてはいませんでした。実はそれを聞いたあと練習の意識や、食べ物などをさらに改善して頑張っていました。そして選手権メンバーの発表の日がやってきました。次々にもともと上のカテゴリーにいる選手や、トップチームの選手の名前が呼ばれていきました。僕の胸ははち切れそうなくらいの焦りや、不安がありましたが、どこから湧いてくるのかわからない自信もありました(笑)
そして、最後の1人の名前が呼ばれました。それはずっと願っていた自分の名前でした。その時嬉しいと言うよりかは、期待に応えようと言う感じでした。しかし、僕はトップチームのリーグ戦には出場できたものの、選手権には出場することができませんでした。とても悔しかったです。
3年間色々なことがありました。1年生の時は我慢の年でした。2年生の時は変化と成長の年でした。最後の1年間は努力と進化の年でした。とても濃い3年間を送ることができてよかったです。目標だったトップチームに所属をして引退をすることができてよかったです。次のステージではもっとしっかり活躍したいです。
3年間、朝練の時は4時から起きて毎日お弁当を作ってくれたお母さんには1番感謝しています。
家族にユニホーム姿を見せることができてよかったです。
関わってくれた人や、スタッフ、先生、家族、友達、に感謝しています。ありがとうございました。

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